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ここに文章のタイトル

 横浜。
 日華洋行の主人陳彩は、机に背広の両肘を凭せて、火の消えた葉巻を啣えたまま、今日も堆い商用書類に、繁忙な眼を曝していた。
 更紗の窓掛けを垂れた部屋の内には、不相変残暑の寂寞が、息苦しいくらい支配していた。その寂寞を破るものは、ニスののする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。
 書類が一山片づいた後、陳はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。
「私の家へかけてくれ給え。」
 陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。
「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に間に合うまい。――じゃ頼むよ。――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」
 陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸を摺って、啣えていた葉巻を吸い始めた。
 ……煙草の煙、草花の、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き上る調子外れのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒を前にしながら、たった一人茫然と、卓に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。
 女はまだ見た所、二十を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、忙しそうにビルを書いている。額の捲き毛、かすかな頬紅、それから地味な青磁色の半襟。――
 陳は麦酒を飲み干すと、徐に大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。

(芥川龍之介「影」より)